行間を読む

よく「本は行間を読め」と言います。

人と会話をしたり、お書きになった文章を読んだりしても

実際のところ、それは氷山の一角に過ぎず、

本人の考えていること、そして伝えたいことなど

他人がすべて理解することなど到底不可能なことでしょう。

だからこそ・・・口から出た言葉、そして書かれた言葉から

どれだけのものを感じ取るのかが

きっと本当の意味で「人を理解するための努力」なのでないか?

と思います。

更に言えば「人を理解する」ということは

単に言いたいことや感情が分かるという一種の「分析」ではなく、

その人が語らなかった、さまざまな背景というフィルター越しに

「本当に伝えたいこと」を感じ取る「聞き手の愛情」こそが、

良い人間関係を築くために、もっとも必要なのではないのか?と、

勝手に思う今日この頃です。

口下手

昨夜遊びにきてくれた友人が、

「話し上手になるにはどうすればいいのか?」

なんてことを言い出しました。

そう言われてみれば、

この友人・・・・・確かに口下手です ^ ^

背の中には話し上手の方がいらっしゃれば、

一方で、口下手な方もいらっしゃいます。

話すということは「伝える」ということですから

上手に話すということは必要なのでしょうが、

「話し上手」より「口下手」の人の方が

意外に好かれることがあるんですよね 。

それはいったい何故でしょうか?

きっと、話すということには

「伝える」ということと「届く」という

二つの要素があるからではないのかな?

なんて思います。

話すということは「伝える」ということですが、

それが相手に「届く」かどうかは別の問題です。

「人と人のあいだには川があるんだ」と想像すれば、

その川を隔てた人にメッセージを伝えるためには

橋を架けなければ届けられません。

橋とは、すなわち感情です。

しかし・・・橋を架けるためには

相手の承諾も必要となる訳で、

一方的に橋を架けようとすれば、

相手に拒否される場合もあるのです。

話し上手の方は、この橋の掛け方が

とても上手で早いため

相手は自分の意思と関係なく橋を架けられたことに

あとで気付くことになるのですが、

一方で、口下手な人の場合は

なかなか橋を架けることができないため、

逆にそれを気遣う相手が、

向こうから橋を架けて下さることになるのです。

相手から橋を架けて下さるということは、

おのずと「聞く耳」を持っているということなので

口下手な方の話は、上手下手ではなく

その朴訥なキャラクターごと

相手が受け入れて下さるという結果になり、

懸命に話す姿勢が、逆に好印象をもたらすという

結果になるのではないのでしょうか? 

そんなことを思いながら、

「オマエは口下手のままがいいと思うよ♪」

なんて、友人に笑ってしまった

昨夜の無責任オヤジでした ^ ^

後ろ指をさされる

昨夜、知人たちとの会話の中で

「後ろ指をさされるような生き方はやめようね」

というような話になりました。

笑いながら話に参加しながらも、

実は内心、こんなことを考えてしまいました。

後ろ指をさされる内容についてはさておきますが、

「後ろ指」とは、当然後ろからさされるものですから

明らかに「指される方」は前を向いているのです。

他人の背中を指差し、批判をする側は

その人がナニを見て、

どこに向かっているのか?などとは考えずに

ただただ評価や批判をするのみという場合が

往々にして感じられるような気がするのです。

世の中には二通りの人間が居て、

「変化し続ける人」と「変化しない人」

もしくは

「変わろうとする人」と

「そこに留まろうとする人」の

大きくふたつに分かれるように思います。

そして「変化しない人」は

「変化し続ける人」の背中に向かって

常に後ろ指をさすという仕組みになっているようです。

「変化し続ける人」が何かにつまづいた日には、

それみたことか・・・と、

「変化しない人」は大喜びですが

実際のところ「変化し続ける人」たちは

そんなことなど意にも介さず、

次の目標に向かって黙々と歩むのです。

何となく、そんなことを考えてみたら、

人の後ろ姿を批判するだけの人生よりは、

常に変化しようと前向きに生きることの方が

生き方としては素敵なんじゃないのかなぁ?なんてね。

もちろん、良い意味での「変化」ということではありますが、

「後ろ指をさされる」ということも、

まんざら悪いことでもないような気がする

今朝のオヤジです ^ ^