子どもの躾について

「ウチの子は行儀が悪くて・・・」と
嘆く親御さんがいらっしゃいますが、

本来、行儀の良い子供など存在する筈も無く、
親の身勝手な行儀を強制される子供の方が
被害者のように感じることもしばしばです。

子供の行儀や躾のことは専門家ではないので
偉そうなことは言えませんが、

実際のところ、親自身の礼儀やマナーによって
子供の行儀は自然に身に付く筈だと思います。

裏を返せば、
「子供が親以上に行儀良くなる訳がない」
というの私の正直な気持ちでしょうか。

もちろん、子供が成長する過程において、
自分自身で礼儀やマナーを学びながら、
魅力的な人間になっていくことは可能ですが、

幼い頃においては、両親というものが
子供にとって唯一のお手本です。

ところが、そのお手本であるべき両親の
礼儀やマナーはどうなのだろう?と、
ふと疑問に感じることがあります。

「子供は親の背中を見て育つ」と言われますが、
確かにそれは事実のようです。

子供に礼儀を躾けたいと思うのなら、
まず、親が自身の礼儀を正す必要がありそうです。

そして同時に、他人に対してだけではなく
我が子に対しても姿勢を正すべきでしょう。

子供にぞんざいな態度で接すれば
子供は他者に対して、必ず同じ対応をするのです。

「我が子だから」ではなく「我が子だからこそ」
他の誰よりも丁寧な扱いが必要なのだと思います。

子供を「躾ける」のではなく、
子供が「見習う」手本となる親になるのが

まず先決なのではないだろうかと感じる、
今朝のオヤジなのでした。

仕返ししたいと思ったら

友人が、なにやら相当嫌な目に遭ったらしく、

「いつかアイツに仕返ししてやる!!」と

私に宣言しておりました。

確かに、他人から嫌な仕打ちを受けた時、

「仕返ししてやるぞ!」と思うことがあります。

アハハ「あります」って言っちゃった。

正確には「ありました」なんですけどね 。

いつの頃からなのか忘れてしまいましたが、

そんな気持ちが微塵も無くなってしまいました。

仕返しや復讐なんて

つまらないことを考えるエネルギーを

もっと素敵なことに使うことが

幸せに繋がることに気付いたからなんです。

仕返しなんて考えてたら

自分の心が醜いものになってしまうから、

そんなもったいないことはやめましょう。

憎いとか、恨みを持つ人が

今あなたの周りに居るのなら、

「いつか復讐しよう」なんて思わないで、

自分が素敵な、やさしい毎日を送ることだけに

集中してみてください。


きっと、この世で一番の「仕返し」とは、

仕返ししたいと思う人よりも、

自分が幸せな人になることなんですから。

心の成長

昨夜、若者たちと深夜まで語り合いました。

失礼ながら、若者を舐めてましたが

なかなか勉強してるものだと感心し、

説得力のある意見に脱帽しました。

ただ、少し気になったことですが、

知識と知恵はまったく異なるものであり、

ものごとは正解不正解ではなく、

本質というものを見極めなければ

何も見てないのと同じであるということでした。

イギリスのことわざに

「学問のない経験は、経験なき学問にまさる」

というものがあります。

同じように「学者の取った天下なし」

という言葉にもあるように、

政治学者が国を治められる筈も無く、

ついでに言えば、経済学者にも

会社の経営が出来るわけがありません。

本来ならば、知識が増えれば増えるほど、

逆に正解と不正解を断定できなくなるのが真実であり、

何かを断定してしまった瞬間から

思考はストップしてしまうような気がします。

たとえば、子供時代に見える世界・・・

そして、20代・30代で見える世界・・・

さらには、50代を過ぎてから見える世界・・・

同じ一人の人間でも歳を取るにしたがって

全然見え方が変わってくるものですが、

ただし、ものごとの本質というものは常に同じです。


音楽で例えるならば、

「やっぱりモーツァルトが一番だね」

なんて小学生の子供が言ったら、

きっと笑ってしまうじゃないかと思うんですが、

じゃあ、50代の人が

同じことをを言ったらどうなんだ?と言えば

やっぱりそれも少し違うと思うのです。

子供の頃と50代になってからでは

モーツァルトの曲は違って聴こえるのは当然ですが、

更に70代・80代になって聴けば

もっと違う筈なんです。


じゃあ、なにが正しいのかと言えば、

「モーツァルトが一番だ」ということよりも、

モーツァルトの曲は聴く度に、

そして演奏者が変わるたびに、

その都度違う表情が感じられて素晴らしい。

というのが本質なんじゃないのかな?

なんて思うのです。


すべてのことを決めつけないこと。

そして、無理に正解を導き出そうとしないで、

その時々で柔軟な心のクッションを持つことが

本質を見極める上で重要なことではないのかな、

なんて、ふと思ったオヤジなのでした。