泥のように眠る

昨日は撮影の仕事で山の奥まで向かいました。

久々に重たい機材を背負っての山歩きで、

運動不足の身体が悲鳴を上げ、

帰宅してシャワーを浴びて、

ソファに横になった途端・・・

晩飯も食わないまま爆睡してしまいました。


こんなに泥のように眠ったのは久しぶりで、

なんとも言えない心地よい目覚めに、

ふと思ったのでした。



毎日重労働をなさっている方には

申し訳ない話ではありますが、

普通の仕事をしている私は、

「泥のように眠る」ということを、

年に何度経験するのだろうか?なんて。


「疲れた~!!」と叫んでいるものの、

考えてみれば日々の生活において

そんな経験をすることは

年に数えるほどしかありません。



一日を終える時、日中にしっかり使い切った

肉体の疲労感を覚えるくらいに動くことが、

身体に良い影響を与えるような気もしますし、

その疲労感から、

つまらないことを考える余裕も無く

泥のように熟睡するというのは、

本当に健康な暮らしであり、

そして幸せであるような気がします。


クタクタになって一日を終えて、

エネルギーを使い果たして爆睡する。

すると、翌朝にはきれいなエネルギーで

身体が満たされているから、

目覚めもいいし食事も美味い。

こんな素敵な循環ができたらいいですね。


バッテリーだって使い切ってないのに

毎日ちょこちょこと充電してたら、

寿命が短くなるんです。

バッテリーを長く持たせようと思ったら、

しっかり放電してから充電するのが理想的。

人の身体も一緒なんだろうと思います。

しっかり疲れて・・・・しっかり寝る。

毎日、もっと身体使わなくっちゃ!!

なんて思った、今朝のオヤジです。


P.S

昨日あんなに身体を酷使したのに、

何故かどこも痛く無い。

きっと忘れた頃にアチコチが痛くなって

「なんでだ・・・?」って思うんだろうなぁ ^ ^;;

ドラマの主人公

出張先で入った定食屋さんでの出来事。

胸に名札をつけた若い店員さんが接客をしてくれました。

名札を付けた店員が他には見当たらなかったので

新人研修中だったのかも知れませんが、

その店員さんは笑顔がとても素敵な好青年でした。


メニューがあまりに沢山あったのと、

どれも美味しそうだったので

「オススメはあるの?」と尋ねたら

「今日は○○がオススメです」

と答えてくれたんです。



ところが、そのオススメが私の苦手な魚だったので

「残念・・・オレ、苦手なんだよなぁ ^ ^;;

ちなみに○○くんは、店で何が一番好きなの?」

と、彼の胸にあった名前を呼んで尋ねたのです。



すると突然、タダの店員さんであった彼の顔が

店員としてではなく、一人の青年に変化したんです。

「そうですねぇ・・・僕は○○が好きかなぁ?」


そう答えた彼に

「じゃあ、オレもそれ食べたいな ^ ^」と笑うと

笑顔で厨房に戻って行きました。



帰りにレジで清算していると、

少し離れたところで、見ている彼に気付いたので

手招きして呼び寄せ

「ありがとな・・・美味かったわ 」と笑うと

「良かったぁ!!」と嬉しそうな顔をした彼に、

「バイトなの?」と尋ねたら

大学生でバイトをしているとのこと。


「勉強もバイトも頑張れよー!!」

と声をかけながら店を出ましたが、


深々と頭を下げながら見送ってくれた彼を、

「どうかお守りください」と神様にお願いしながら

帰路につきました。


仕事やプライベートで一歩外に出ると、

コンビニの店員さん

ショップの店員さん

レストランや喫茶店の

ウェイターやウェイトレスさん

道路やビルの清掃員さん

その他、毎日いろんな方たちと

なにげなく接触する機会があります。

自分が毎日必死で仕事をしているように、

誰もが頑張って仕事をなさっています。

時折、色んな場面で出会った人に

仕事の顔ではなく、プライベートの顔を

想像してしまうことがありますが、

みんなそれぞれの立場や境遇で

いろんなドラマの主人公として生きています。

そんな人たちとの毎日の偶然の接触は、

いつの日か、大切な出会いに結びつけるために

神様がすれ違わせて下さったのかもしれません。

だから、ほんの小さなすれ違いにおいて、

相手と自分の立場を超えて、

一人の人間として接することができれば、

きっと素敵な出会いになるだろうなぁと

ふと感じたオヤジなのでした。

男子三日会わざれば・・・

「男子三日会わざれば刮目して見よ」という
ことわざをご存知だと思います。

日々頑張って精進している人というものは、
三日も経てば大きく成長している筈だから
心して見るようにといった意味だと思います。

僅か三日とまでは言いませんが、
人というものは数ヶ月会わなければ
新たな目で見る必要があるものだと思います。

私達は自分が知る過去の尺度でしか
他者を判断しないものですが、

善くも悪くも「人は刻々と変化する」という
認識を常に持つことが必要な気がします。

私は過去を知ることによって
その人の判断材料にすることはありませんし、

過去というものは、現在の人格を形成するために
必ず必要があったものだと認識しています。

「あの人はこういう人だから」

「以前、こんなことをしたから」と

人が過去に犯した過ちを評価する人々が
なんと多いものかと嘆かわしく思います。

きっと、そんなことをおっしゃる人の多くは、
「自分が成長しない人」であるがゆえに、
他者が成長することも知らない人なのでしょう。

アイルランド出身の劇作家であり音楽評論家、
そしてノーベル文学賞も受賞した
ジョージ・バーナード・ショーも、
こんなことを言っています。

「もののわかった人間は、私の仕立屋さんだ」

「彼は、私に会う度に
いつも寸法を測り直してくれる。
他の人々は古い寸法でしか、私を判断しない」

他者やものごとに対しては敬意を持ちながら

常に新鮮な目で見つめる必要があるのでは?

と感じる、今朝のオヤジです。