邂逅

「邂逅」(かいこう)という言葉があります。

思いがけない出会い・・・

そして、偶然の出会い・・・という意味です。

生きていると、人やモノとの「思いがけない出会い」や

「偶然の出会い」が日々あるものです。

「邂逅」とは、更に言えば、

通常のありきたりな出会いではなく

魂と魂がぶつかり合うような、人生を変えるほどの重要な出会いのことであると、私は解釈しているのですが、

それに巡り合う能力のことを「セレンディピティ」と言います。

出会いは日々たくさんあるのですが、

その中から一生をかけて付合うほどの「魂の出会い」を見いだすためには、
出会った人やモノから、それを感じ取る能力が必要です。

でなければ、せっかくの出会いも、単なる「知った」で終わってしまうのです。


では、どうすればそれを見いだせるのでしょうか?

常日頃から

「自分は何のために生きているのか?」

日常生活において、人生や仕事に問いかけを持ち、自分自身の中に問題意識を持つことこそが、出会った人を魂レベルで感じることができる、唯一の方法ではないのか?
と私は思います。



プライベートやビジネス、

そして、このブログや他のSNSにおいて、これまで沢山の皆様に出会うことができたことは、とても有り難いことです。


中には、まだ実際にお会いしてもいないのに、「邂逅」と言うべき素晴らしき出会いを感じ、
生涯の友という「縁」にまで繋げさせていただきたいと願う友人ができたことを、深く感謝しています。


今後も更に素晴らしいご縁を賜りたいと願いながら、

日々、たわごとを喋り続けるオヤジです ^ ^

自分の主観で生きている

なぜ、人に好かれる人がいれば、嫌われる人がいるのでしょう?

年寄りと言えばまさに人間の集大成。
その人がどんな考え方や生き方をしてきたのかは、その人柄を見ればよくわかるものです。

人から好かれて、周りにいつも人が集まるお年寄りもいれば、人から嫌われて、いつも孤独なお年寄りも居ます。

若いうちなら一人でも構わないでしょうし、わずらわしい人間関係などいらない思う人もいることでしょう。

しかし次第に体が弱って体力や気力が落ちてきても、果たしていつまでもそんな強がりを言い続けることができるものでしょうか?

年配者の方を見ていると、ある共通点があることに気づきます。

周りに人が集まる方に見られる特徴は「笑顔」と「人の話をよく聞く」こと。
そして「人の悪口を言わない」。

決して難しいことではないものの、それを長い年月をかけて積み上げるのは、とても難しいことなのです。

いつも笑顔を心がけて過ごしてきた人の顔には「笑皺」が刻まれて、とても優しく素敵であり、そんな人と一緒にいるだけでこちらも心が癒され、いつもそばに居たいと思うものです。

しかし、こういった人は稀であり、大半の年配者の顔はしかめっ面であり、出て来る言葉は常に愚痴や陰口ばかり。

おまけに人の話を聴こうともせず、一方的に自分の苦労話や身内や他人の陰口ばかり言っているような人と、はたして一緒に居たいと思いますか?

いつもそんな仏頂面や陰口を聞かされるのでは、残念ながら人が次第に周りから離れていくのは当然のこと。

年配の方というのは自分の固定観念が強くなりがちなのですが、自分を振り返ることも必要ではないかと思います。

人間関係の中で好き嫌いの激しい方がいらっしゃるものですが、実際のところ「アイツは嫌いだ」とおっしゃる場合、それは自分にとって嫌なヤツなだけで、本来「嫌な奴」という人はどこにも存在しないのです。

私たちが誰かに対して好き嫌いを感じるのは、あくまでも「自分にとって」ということであり、その人の家族や友人たちにとっては、かけがえのない存在である場合がほとんどなのです。

誰にでも毎日使っている愛用のカップやお茶碗というものがあるはずですが、それらは自分が気に入って使っているものの、それ自体は「良い悪い」という存在ではなく、あくまでも「ただのカップと茶碗」なのです。

結局「好き・嫌い」や「良い・悪い」ということは「自分にとって」というだけであるということを自覚すれば、人間関係で生じる不満のほとんどが「自分の主観」であると解決するはずです。

とは言うものの、そんなに簡単に解決しないから、毎日誰かに腹を立てたり、悲しんだり悩むんですよね。

謙虚であること

「謙虚である」ということは素晴らしい。

これは誰もが認めることだと思います。

しかし、これが難しいもので

「言うは易く、行うは難し」なんですよね。

「私は謙虚です」なんて人が居たらどうでしょう?

そんなことを言う人が謙虚である筈もなく、

謙虚の大切さを口にすること自体に

その人の高慢さが見え隠れするものですから、

いやはや困ったものです・・・。

こんなことを偉そうに言いだす私だって然りで、

謙虚さのかけらもないヤツなのですから

まったく困ったオヤジです。

人が「謙虚であれ」という言葉を口にするのは、

「そうでありたい」との願望があるからであり、

すでに謙虚な方からそんな言葉は

きっと発せられる筈もないことでしょう。


思うに、謙虚な人とは

精神的な許容範囲がとても広い人のような気がします。

言い換えれば「他者を赦すことができる人」ではないか?と。


他者との関わりの中で、

考え方や意見が食い違うことを容認しながら

逆にそれを受け入れることで

違いを楽しむことさえできる人。


「人は人、自分は自分」なんて言い方をすると、

つい、個人主義とか利己主義だと捉えがちですが、

違う言い方をすれば

「あなたは、あなたのままでいいですから、

私も、私のままで許してくださいね」ということ。

それが謙虚な人のベースにあるんじゃないのかな?

なんて想像してしまいます。

というわけで・・・

「謙虚であること」というのは、

他人を認め・・・自分をも卑下しない

戦わずして王道を歩む人の姿勢なのではないかと

ふと考えてしまった、今朝のオヤジなのでした。