行間を読む

よく「本は行間を読め」と言います。

人と会話をしたり、お書きになった文章を読んだりしても、実際のところ、それは氷山の一角に過ぎず、
本人の考えていること、そして伝えたいことなど、他人がすべて理解することなど到底不可能なことでしょう。

だからこそ・・・口から出た言葉、そして書かれた言葉からどれだけのものを感じ取るのかが、きっと本当の意味で「人を理解するための努力」なのでないか?と思います。

更に言えば「人を理解する」ということは、単に言いたいことや感情が分かるという一種の「分析」ではなく、
その人が語らなかった、さまざまな背景というフィルター越しに「本当に伝えたいこと」を感じ取る「聞き手の愛情」こそが、

良い人間関係を築くために、もっとも必要なのではないのか?と、

勝手に思う今日この頃です。

業界用語

私が昔から属している業界では、一日中、朝・昼・晩の区別なく、挨拶はすべて「おはようございます」です。

一般的に考えれば、深夜に会っても「おはようございます」は、かなり変な挨拶です。

私は40年以上この業界に居るのですが、この世界に入った頃は、一日中「おはようございます」と挨拶することに、少し違和感を感じたのですが、

すぐに先輩諸氏に見習い、それを「業界用語」として使うのが当たり前になってしまいました。

ところが、最近ある本の中に「何故、おはようございますなのか?」

その、答えではないだろうか?と思えるものを見つけ、40年以上経って初めて疑問を解決することができました。

一日の挨拶は三つあります。

朝の「おはようございます」

昼の「こんにちは」

晩の「こんばんは」

ところが、朝・昼・晩の挨拶の中で、

唯一「敬語表現」でのあいさつは

「おはようございます」だけなのです。

どうやら、この風習は歌舞伎の世界から始まったとの記述がありましたが、

それが確かなのかは別として、

その日に初めてお目にかかる人に対して、敬語で挨拶しようという意味で始まったものならば、これは素晴らしいことであり、

業界用語もまんざら捨てたものではないなぁ、と妙に嬉しく思ったオヤジなのでした。

納豆から元気をもらう

冷蔵庫の納豆を取り出して食べようとしたら、

「賞味期限を過ぎてるんじゃないの?」との家内の言葉に
ふと見ると、確かに3日前の日付でした。

賞味期限などまったくおかまいなしで、
「一口食べて変だったらヤメりゃいいじゃねえか」といういい加減な性格ですし、

まして「納豆ってもともと腐ってるものだ」と、美味しくいただきながら、ふと思ったのでした。


「腐る」のと「発酵させる」とでは、どえらい違いじゃねえか・・・なんてね。

腐ったものを食べれば害になるけれど、発酵させたものを食べれば身体に良い。


なるほど・・・これだよ、人生も。

なんて、オッサンは重大発見をしたのです。


いい加減に生きてりゃ、歳をとるにしたがって自分の意志とは裏腹に、周りに迷惑を掛ける一方。

しかし・・・真剣に生きてりゃ、歳をとっても少しは周りに良い影響を及ぼすこともできるだろう。


失敗続きの人生だけど、誰かのために挑戦した失敗なら、きっと「腐った」んじゃなくて「発酵」しつつあるんだと、勝手な持論をつくりあげながらも、


あらためて納豆に勇気をもらった、アホなオヤジなのでした。