愛の波動

親しくしている方が倒れられたと聞き、
入院先へお見舞いに行きました。

幸い大事には至らなかったとのことで
眠っている姿を見ながらホッとしたのでしたが、

ベッドの傍に座り、心電図モニターを眺めながら、
ふと・・・妙なことを思ったのでした。

「波動」というものが他の波動と調和し、
共鳴しあうことを「同調」と言います。

私達人間の持つ波動は、
日頃考えたり感じたりすることによって生まれ、

その波動が回りの人にも伝わっていくことで、
周囲と同調するか、もしくは反発していきます。

以前、何かの本で読んだのですが、
心臓も鼓動しながら波動を生み出していて、

ある波動の実験をしたところ・・・

人が「感謝」やプラスの感情を抱いている時、
心電図に現れる波線は規則正しい波を描きますが、

「怒り」などのマイナスの感情を抱いていた場合
その波は乱れて不安定なものになるというのです。

いやいや、友人の心電図モニターに現れる波形が
どちらだったのか?なんて話じゃありませんからね ^ ^

心電図は目で見ることができますが、
日常では人が持つ、その波動は見えないものです。

先日クラシックのコンサートに行った時、
コンサートホールに響き渡る曲を聴きながら

何かが自分の心と共鳴し合い、
涙が込み上げて来るということがありました。

きっとクラシックに限らず、どんなジャンルでも
曲を聴いていて涙が込み上げるという経験は
どなたにでもあると思います。

これが、音楽と人の心の「共鳴」であり、
そして「波動の同調」なんだろうと思います。

人と人との心の波動が共鳴し合い、
そしてそれが同調した時・・・

きっと大きな「愛の波動」が生まれ、
みんなが幸せな気持ちになれるのでしょう。

だからこそ・・・
常に自分の周りには愛の波動を伝えなければと、
あらためて感じたオヤジなのでした。

ポジティブ

私がお付き合いさせていただいている経営者の方々の中には、それはもう「超」が付くほどにポジティブな社長がいらっしゃいます。

それは、とても良いことなのでしょうが、反面、度を超したポジティブさというものは、問題を引き起こす原因ともなりそうです。


実は、そんな経営者が率いる会社には、何故かネガティブ思考な社員が多く、中には、経営者の奥様が鬱病だったり、お子さんが引き蘢りであるという現実を見たりするのです。


「類は友を呼ぶ」という言葉のごとく、まさに、プラス思考の人間には同じようにな友が集まるものですが、それは、価値観やモノの考え方が似た仲間を引き寄せるという類いのものであり、実際のところ、あくまでも「仲間」や「友」という部類であって、どうやら「家族」や「社員」では無いようです。


人は誰でも波動というものを持っていますが、その波動というエネルギーは、個人で存在する場合は大きい方が良いのでしょうが、会社や家庭という、ある意味「運命共同体」とも言うべき集団の中では弊害を引き起こす原因になりそうです。


エネルギーというものは、プラスとマイナスの量が等しくなることで初めて力を発揮するものであり、ポジティブという思考エネルギーは、ネガティブのエネルギーと等しくなることで均等を保とうとします。

すなわち、ポジティブな人間が居れば、同じだけのネガティブな人間が存在しなければ共同体は成り立たないのです。

権力を持つ者が、スーパーポジティブであるという会社や家庭という「逃げられない集団」の場合、プラスのエネルギーが増大するばかりでは暴走する危険性があり、誰かがネガティブにならない限り集団のバランスが保てないことから

社員や家族がその役割を担って、マイナスエネルギーを抱えてしまうのでは?などと想像してみたりしています。


人というのは、誰かとの関係性の中でポジティブにもネガティブにもなれるものです。

私の知る限りでは、ポジティブシンキングである人のほとんどがネガティブ思考を「悪」と捉え、ものごとを必死で良い方向に考えることで、自分が抱えそうになる不安を打ち消そうとしてるように思えてなりません。

そして、その結果、自分以外の人たちの弱さや苦しみを否定したり、弱さと闘っている人たちを拒絶してしまいます。

私が敬愛する、人生の先輩諸氏に共通することは「受け入れる」という姿勢です。

「なるようにしかならないから、努力しましょう」と、常にありのままを受け入れ、その中で自分のできる最大限の努力をなさいます。

人間も、地球と大自然の一部なんです。

必死で反発しようと感情を抑制したってどうにもなるものではありません。

素直に、あるがままを受け入れることも、時には大切なことではないのかな?なんて思うオヤジです。

ヒツジ

世の中には「こうであるべき」ということに

がんじがらめになっている人が

やけに多いように思えます。


「人としてどう生きるべきか?」

「夫として、妻としてどうあるべきか?」

「父親として、母親としてどうあるべきか?」

「男として、女としてどうあるべきか?」


その他諸々の「どうあるべきか?」ということ。

本来、すべては自分自身が決めることなのですが、

多くの人は世間の標準である「べき」という定義に

自分を当てはめようとしてしまいます。

十人十色と言いますが、

すべての人のあるべき姿は違って同然のこと。

無理に世の中の基準を満たそうとする

つまらない努力から解放されれば楽な筈なのに、

きっと自ら「標準」であることが

群れの中に生活するヒツジにとっては

ある種の安心感を覚えるのでしょうね。


せめて、自分自身の生き方くらい

他人の真似をしなくてもいいんじゃないかと思う

困ったオオカミ気質のオヤジなのです ^ ^