心の栄養

ネットでなんでも検索できる時代になり、
ほとんどの情報はパソコンで事足りるようになりました。

でも「必要な情報」と「こころの栄養」というものは、きっと違うのでしょうね。

暇さえあれば本屋を覗くのは何故だろう?と考えてみると、本の匂いが好きなのかな?なんて笑ってしまいますが、
時折、ふと棚から手に取った本が、自分の人生まで変えてくれたという経験は、まさに「本とは出会いだんだなあ!!」と感じます。

その時々に、自分の心が探しているものを、本棚から神様が導いて下さってるのでは?なんて思うことがあります。

だから、本屋へは特に用事がなくても「神様、なにかお薦めの本はありますか?」なんて気持ちで寄ったりすることがあるんです。

パソコンが勧めてくれる本は、あくまでもコマーシャルですからね。

変態気質の私などは、「ベストセラー」と言われる本は、意地でも読まないものですから、人様との会話の中で「エッ! 本好きなアナタが読んでいらっしゃらないんですか?」と驚かれることもしばしばです。

また、時折とても素敵なことが書いてあり、「ああ、いいなあ!!」と思っても、高価な本などはそうそう買うのを躊躇う場合がありますが、

そんな時、いつも思い出すのは亡くなった父の言葉です。

そんなに裕福でもない家庭ではありましたが、「ほんの一行でも、心に響く本があったら買いなさい」と、父は、私が本が欲しいと言えば、ためらいもなくお金をくれたものでした。


「本は栄養となって、いつか必ず心の成長を助けてくれる」


と言ってくれた父の気持ちが、


今、つくづく身にしみる年頃になりました。

行間を読む

よく「本は行間を読め」と言います。

人と会話をしたり、お書きになった文章を読んだりしても、実際のところ、それは氷山の一角に過ぎず、
本人の考えていること、そして伝えたいことなど、他人がすべて理解することなど到底不可能なことでしょう。

だからこそ・・・口から出た言葉、そして書かれた言葉からどれだけのものを感じ取るのかが、きっと本当の意味で「人を理解するための努力」なのでないか?と思います。

更に言えば「人を理解する」ということは、単に言いたいことや感情が分かるという一種の「分析」ではなく、
その人が語らなかった、さまざまな背景というフィルター越しに「本当に伝えたいこと」を感じ取る「聞き手の愛情」こそが、

良い人間関係を築くために、もっとも必要なのではないのか?と、

勝手に思う今日この頃です。

言葉の鮮度

食べ物と同じように

言葉にも適温と鮮度があるのでは?と思います。

何気なく投げかける言葉が

人の心を冷たくもするし、

また、暖かくすることもできます。

「ありがとう」は

人を暖かくする言葉ですね。

でも、「ありがとう」と「ごめんなさい」は

タイミングを逃すと鮮度は落ち、

せっかくの言葉が冷めてしまいます。

言葉も鮮度が決め手です。

適材適所でタイミング良く

暖かい言葉を投げかけたいものですね。